

月曜日の朝。会社のオフィスにいるはずの佐伯美咲の目の前には、まるで違う風景が広がっていた。
「――また来てしまったのね、ここに」
美咲は静かに自分の足元を見つめた。
先週、再び“5.5階”に降り立ち、かつての自分と向き合って以来、彼女の中で何かが変わっていた。
目の前に広がるのは、ただの“博物館”ではない。
展示物が消えかけたあの幻想の空間は、少しずつ形を変え、美咲の心の中の「ある道」へと繋がっていた。
そこは「記憶の小径(こみち)」と呼ばれる、時の流れを巻き戻す小道だった。
小道の両脇には、ガラスのショーケースが並んでいた。
中には、美咲が幼いころに夢見たささやかな願いごとが、ひとつずつ展示されていた。
――赤いリボンをつけた初めてのランドセル。
――読み終える前に閉じた児童書。
――片想いしていた男の子と、手をつなぎたかった下校道。
――高校の放課後、演劇部のオーディションを受けたときの震える声。
それらは、まるで“未完成の思い出”たち。
小道を歩くにつれて、美咲はふと、ひとつの展示の前で足を止めた。
それは、白い壁の前に立つ自分。
手には封筒。宛名も書いていないその封筒の中には、大学時代に書いたラブレターの原稿が入っていた。
「これは……あの時の……」
彼女の頭に、鮮やかな情景がよみがえった。


大学二年の冬。演劇学科の同期、戸倉隼人(とくら・はやと)。
彼にずっと想いを寄せていた。笑い方が少し意地悪で、でも稽古の合間にふと真剣な目をする瞬間に惹かれた。
卒業が近づき、就職活動で別々の道を進むことが決まり、美咲は思い切ってラブレターを書いた。
でも、渡せなかった。
「こんな手紙、いまさら子どもっぽい」と思ってしまったから。
手紙は、引っ越しのときに捨てたつもりだった――でも、この“記憶の小径”には、まだ残っていた。
「あなたが捨てたんじゃない。心のどこかに、残してたんだよ」
背後から、あの“少女”の声が聞こえた。
以前の博物館で出会った、かつての自分――12歳の姿をした“もうひとりの美咲”だ。
「これは、あなたが“まだ終わってない思い出”。手紙は渡さなかったけど、気持ちは渡したかった。だからここにあるの」
「……でも、もう今さら。彼に会うことなんて、ないと思う」
少女はにこりと笑った。
「会わなくてもいいの。これは“会いたかった自分”と向き合うための旅だから」
そのとき、美咲の前のガラスが、ふわりと霧のように溶けていった。
手紙が、美咲の手に収まった。紙の端は少しだけ黄ばんでいたけれど、文字はきちんと読める。
《――わたしは、あなたの舞台を見るたびに、なぜか泣きそうになります。
それは、あなたの声や表情が、わたしの知らない気持ちを動かしてしまうからです。
この想いが、もしも伝えられるなら、春の終わりにでも、答えが聞けたらいいと思っています。》
それは、たしかに彼女の手によって書かれた「本当の自分の言葉」だった。
美咲は手紙をそっと胸にしまい、深呼吸した。
少女が小道の先を指差した。
「ここから先は、“今のあなた”だけが進める場所。
過去と向き合ったら、次は“未来を決める分かれ道”」
彼女は一歩、道を踏み出した。
すると周囲の展示物が消え、景色がまた変わった。
そこは、真っ白な空間だった。床も天井も壁も、すべてが柔らかな光に包まれている。
中央に、小さな扉がひとつ。
その扉の前に、スーツ姿の係員が立っていた。前回とは別人のようだったが、どこか既視感があった。
「ようこそ、佐伯美咲さん。ここは“可能性の待合室”です」
「……可能性?」
「あなたがこの半年で拾い集めた思い出や感情。それらをもとに、“どの未来へ進むか”を選ぶことができます」
係員は指を鳴らすと、空中に3つの映像が現れた。
A:安定した会社で働き続ける未来
美咲は会社で昇進し、後輩たちに慕われ、確かなポジションを得ていた。けれど、表情はどこか乾いていた。
B:小説家として活動し始める未来
喫茶店で原稿を書き、出版社に持ち込む日々。経済的には不安定だけれど、目は輝いていた。
C:ふたたび演劇に関わる未来
地域の小劇団で脚本を担当し、かつての仲間と再会する。彼女は、舞台袖で拍手を聞きながら涙していた。
美咲はそれぞれの未来を見つめたあと、ぽつりとつぶやいた。
「……どれも、美咲なんだね」
係員はうなずいた。
「あなたが選べば、現実になる可能性を持っています。すべては、“いまのあなたが何を望むか”」
美咲は静かに目を閉じた。そして、胸の中で、ずっとくすぶっていた想いに気づいた。
「わたしは――わたし自身の声を、もう一度聞きたい。
あのときの“言えなかった言葉”を、もう一度形にしたい」
そう答えると、係員はふわりと微笑んだ。
「決まりましたね。では、進んでください」
扉がゆっくりと開いた。
再び、美咲が目を開けたとき、彼女は自分の部屋のベッドの中にいた。
スマホの画面には、朝6時の文字。夢だったのか現実だったのか――けれど胸にある確かな感覚が、それを否定していた。
部屋の机の上には、見覚えのない便箋が一枚。
そこには、見覚えのある文字でこう書かれていた。
《物語を書くことは、思い出に触れること。
あなたの人生は、まだ途中。
言葉にしてくれるのを、待っている人がきっといる。》
美咲はその日、会社を休んだ。
喫茶店「アオイ書房」に行き、赤いノートの続きを書いた。
そこには、もう“迷い”はなかった。
終章への予感
春の風が窓から入りこむ午後。
「アオイ書房」の片隅で、ノートに向かう美咲の目は、誰よりも未来を見ていた。
“5.5階”という階段の途中にあるような不思議な場所は、今も、彼女の心の中に確かに残っている。
物語はまだ続いている。
次に扉が開くとき――彼女は、もう迷わず進むだろう。