
春が終わり、初夏の香りが街に混じり始めたある朝。
佐伯美咲は、久しぶりに会社のデスクに座っていた。
表向きは変わらぬオフィスワーク。
だが彼女の内面は、大きく変化していた。
半年前、“5.5階”と呼ばれる謎の空間に迷い込み、自分の忘れていた夢や記憶と再会し、
そして演じること、書くこと、伝えることの意味を思い出した。
それから彼女は、定時退社を心がけ、夜は創作活動に集中する生活に切り替えていた。
X(旧Twitter)やnoteにも、自作の短編や朗読会の報告を綴り、少しずつ読者が増え始めていた。
なにより彼女の心に変化をもたらしたのは――
戸倉隼人との再会だった。



一 再びの分岐点
ある日曜日の昼下がり。
喫茶店「アオイ書房」の片隅で、美咲は原稿の手を止め、窓の外をぼんやりと眺めていた。
そこへ一人の男性が入ってきた。
「来てたんだな」
戸倉だった。
最近では、自然とこの店で会うことが多くなっていた。
互いに多くを語らなくても、空気が心地よかった。
「新しい台本、書けた?」
「うん。ほら、読んでみてよ」
戸倉が差し出した原稿には、タイトルが書かれていた。
『終点の灯』
それは、ある“エレベーター”が終点にたどり着く物語。
登場人物は“記憶を失くした女”と、“時間を旅する男”。
美咲は静かに目を通しながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
戸倉が言った。
「この物語、君がいなかったら書けなかった」
美咲はゆっくりとうなずいた。
「……じゃあ、私も一つ書く。
“終点にたどり着いた女が、もう一度誰かと舞台に立つ話”」
二人は目を合わせ、自然と笑い合った。
二 灯台の夢
その夜、美咲は久しぶりに“夢”を見た。
エレベーターが静かに動いている。
扉が開くと、そこは広い海と崖の上。一本の古びた灯台が立っていた。
「……こんな場所、初めて」
エレベーターの表示は「終点」。
灯台の入口には、見覚えのある標識。
『忘却の灯台(ぼうきゃくのとうだい)』
彼女が一歩踏み出すと、風がざわりと吹いた。
灯台の内部は、静まりかえっていた。誰もいない。
が、壁にはびっしりと――“彼女の書いた言葉”が書き連ねられていた。
日記、短編、戯曲、メモ……どれもが、美咲の心の奥から出てきたものたち。
階段を上がっていくと、最上階にはひとつの“椅子”と“ランプ”があった。
そこに、あの少女が座っていた。
もう子どもの姿ではなかった。20代半ばくらいの“若い美咲”――
「やっと来たね」
彼女は、笑って言った。
「ここは、“記憶を灯す場所”。
忘れられてしまいそうな言葉たちが、光になって空に昇る場所。
あなたが書いてきた物語の一つ一つが、この灯台の火になるの」
「……わたし、これから、どうすればいいの?」
若い美咲はゆっくりと立ち上がり、窓の外を指さした。
「灯台の光はね、“これから迷う人”に向けるもの。
過去を照らすんじゃない。“これから誰かの指針になる”光なんだよ」
彼女は一枚の原稿用紙を差し出した。
そこには、たった一行の文字が書かれていた。
『わたしは、誰かのために書く。わたしが、わたしであるために。』
目が覚めたとき、美咲は涙を流していた。
三 決意
翌朝、美咲は会社に辞表を提出した。
驚く同僚たちに、「やりたいことがあるんです」とだけ伝えた。
もう、迷いはなかった。
戸倉や榊と相談し、今後は脚本家兼ライターとして本格的に活動していくことに決めた。
「夜のエレベーター」シリーズをもとにした舞台作品の企画も、本格的に進み始めていた。
朗読会や演劇イベント、noteでの連載。
“作品”という形で、自分を表現する日々が始まった。
四 エレベーター、最後の扉
半年後。
東京・中野の小劇場「燈火座」にて、朗読劇『夜のエレベーター』の初日が迎えられた。
客席は満員。
舞台には、美咲と戸倉の姿があった。
ラストシーン。
美咲が演じる主人公が、最後の扉に立ち向かう場面。
彼女は静かに語る。
「もし、もう一度あの扉が開いたなら――
わたしは迷わず、乗り込む。
だってそこには、過去でも未来でもない、“いまのわたし”がいるから」
その瞬間、照明がふわりと落ち、静寂が訪れた。
観客の中に、一人、涙を拭う老婦人がいた。
その隣で、小学生くらいの女の子が手を握っていた。
“誰かの記憶に触れる”というのは、こういうことなのかもしれない。
カーテンコール。
大きな拍手に包まれながら、美咲は笑った。
五 終点と出発
公演が終わった夜、美咲は一人、あのオフィスビルの前に立っていた。
かつて“5.5階”への扉が開いた場所。
いまは何の変哲もないエレベーター。
扉の前で目を閉じ、彼女はつぶやいた。
「ありがとう。わたしの記憶たち。
もう、忘れないよ。ずっと、一緒に進んでいくから」
その瞬間、エレベーターの表示板が――
「END」
と、ひときわ静かに光った。
美咲は笑い、背を向けて歩き出した。
もう、夜のエレベーターに乗らなくても、自分の足でどこへでも行ける。
エピローグ:光は灯る
数ヶ月後。
小さな出版社から、美咲の初の書籍が発売された。
タイトルは――『夜のエレベーター』
副題は、「記憶と再生の物語」。
本の帯にはこう書かれていた。
誰もが持つ、忘れられた扉。
あなたは、開ける勇気がありますか?
ネットでも少しずつ話題となり、読者からの感想が届くようになった。
「泣きました」
「自分の人生を思い出しました」
「“わたしの5.5階”は、どこにあるんだろう?」
美咲は今日も、「アオイ書房」の片隅で原稿を綴っている。
“書くこと”は、“灯すこと”。
終点のその先で、また新たな物語が始まっていた――
完