

あれから半年。
佐伯美咲の生活は少しだけ変わっていた。
毎週日曜の午後、近所の静かな喫茶店「アオイ書房」で、彼女はノートを広げてはペンを走らせていた。
書いているのは、自分自身の過去をベースにした短編小説。「忘れられたものたちの博物館」に迷い込んだ主人公が、ひとつずつ自分の思い出を拾い集める物語。
読者がいるわけでも、締め切りがあるわけでもない。けれど彼女は、誰かに届けるように丁寧に物語を綴っていた。
そんなある日、同じビルで働く後輩の村瀬が、ふとした雑談の中でこう言った。
「佐伯さんって、たまにフッと違う世界に行ってきたみたいな顔してますよね」
「……え?」
「ほら、あのエレベーターさ。たまに変な階に止まりません?“6階と7階の間”とか」
美咲の背筋に、すっと冷たい風が吹いた気がした。
「……村瀬くん、“5.5階”って見たことある?」
「あるんですよ!半年くらい前の金曜の夜。乗ってたら、数字が“5.5”って……でも次の瞬間には普通に“6”に変わってました」
美咲はそれ以上何も聞かず、話を打ち切った。
――あれは自分だけの特別な体験じゃなかったのか。
その夜、美咲は再びビルに残った。仮眠室に泊まる理由はなかった。ただ、もう一度“あの場所”に行きたかった。
深夜2時。
美咲は静かにエレベーターに乗り込んだ。
「……お願い、連れてって」
ボタンには何もない。階数を押す指先は、震えていた。
沈黙。ゆっくりと下降するエレベーター。
そして――
「ピン……」
表示板には、再び「5.5」と表示されていた。
扉が開くと、あの幻想的な空間が広がっていた。
でも、様子が少し違う。前よりも、どこか“暗い”。
天井の星のような光はほとんど消え、展示物も半分ほどが白い布で覆われていた。
そして、彼女を出迎えたのは、前回の係員ではなかった。
そこには、白い衣装を纏った少女が立っていた。12歳くらいの、あどけない少女。どこかで見たような顔立ち――
「……わたし?」
少女はにこりと笑った。
「こんにちは、美咲。ここは“思い出の下書き室”よ。あなたがまだ思い出せてない夢たちの仮置き場」
美咲は言葉を失った。
「あなたは、昔わたしだった。というより、“わたしが諦めたあなた”かもしれない」
少女は赤いバレエシューズを指さした。それは、美咲が子どもの頃に通っていたバレエ教室で履いていた靴だった。
「バレエ、やめたくなかったんだよね。でも、お母さんが忙しくなって……自分から辞めるって言った」
「……そんなことまで覚えてるの?」
「わたしは“忘れられなかったもの”の集まりだから」
少女は微笑んだあと、ふと表情を曇らせた。
「でも最近、たくさんの思い出が消えかけてる。展示物もどんどん薄くなってる」
「どうして?」
「あなたが“もう思い出すのがつらい”って、思ってるから」
美咲はハッとした。心の奥にあった痛み――
「忘れてもいい」と何度も自分に言い聞かせていた気持ちが、目の前に現れている。
「……ここにある思い出たちは、どうしたら戻せるの?」
少女は、ふと奥の扉を指差した。
「“物語”を書いて。全部じゃなくていい。あなたが感じたこと、忘れたくないことを、形にして」
「そうすれば……?」
「記憶は記録になる。あなたが誰だったか、誰になりたいのか、わかるようになるから」
扉の向こうには、まっさらな白い展示室があった。そこには何もない――けれど美咲の胸には、確かな熱が宿っていた。
彼女は手帳を開き、赤いノートの中から物語の続きを書き始めた。
「ある女性がいた。彼女は一度、自分の夢を封印したけれど、忘れることはなかった――」
少女は静かに頷き、展示室の中に、一つずつ光の点が戻っていくのが見えた。
エピローグ
日曜の午後。
「アオイ書房」には、美咲の姿があった。
目の前のノートには、新しい短編が完成していた。
タイトルは――『夢の欠片』
それは、美咲がかつての自分と向き合った記録であり、誰かにとっての小さな灯火になるかもしれない物語だった。
彼女は、もう“忘れること”を恐れていなかった。
忘れても、思い出せる。
思い出せば、また歩き出せる。
そして、あのエレベーターは、今日も静かにビルの中を上下している。
誰かの“5.5階”へと、密やかに――

※こちらのストーリーはフィクションです。