

それは、ほんのささいな知らせから始まった。
ある朝、美咲のスマホに「同窓会のお知らせ」という件名のメールが届いた。
差出人は、大学時代の演劇サークルの仲間、榊(さかき)からだった。
《3月末にOB・OG合同で小さな朗読会をやる予定です。戸倉も出演します。
懐かしい顔ぶれになると思うので、ぜひ遊びに来てください》
戸倉――
その名に、美咲の胸がかすかに波打った。
あの手紙を渡せなかったまま卒業し、彼とはそれきりだった。
最近になって“記憶の小径”で再会した過去の思い出が、また姿を現す。
彼に会って、何かが変わるだろうか。
それとも、変わらずそのまま流れていくだけだろうか。
悩んだ末、美咲は「行きます」と返信した。


当日、会場となる都内の小劇場「燈火座(とうかざ)」に足を踏み入れると、そこは不思議なほど居心地がよかった。
木の香りがほのかに残る、50席ほどのコンパクトな空間。ライトの光が柔らかく、緞帳は深い紺色で落ち着いている。
ステージでは、かつての仲間たちがリハーサルの準備をしていた。
美咲が一歩入った瞬間、榊が笑顔で手を振る。
「佐伯、美咲!来てくれてありがとう。変わらないね」
「いや、だいぶ変わったよ……体力とか、睡眠時間とか」
そんな冗談を交わすなかで、ふと視線を感じた。
ステージ袖、照明の陰に戸倉隼人の姿があった。
あの頃と同じ黒髪、少し鋭い眼差し――だが、以前よりもどこか穏やかな雰囲気が加わっていた。
「……久しぶり」
「……久しぶり」
たったそれだけの言葉なのに、胸がいっぱいになるのはなぜだろう。
二人は短い挨拶を交わし、その後は誰もが過去を懐かしむように談笑した。
やがてリハーサルが始まり、美咲は客席の片隅で見守る立場となった。
朗読劇のテーマは「記憶と再生」。
役者たちが一人ずつ、自らが書いた物語を読み上げる。
その中に――戸倉の番が来た。
彼の声が響いた瞬間、美咲の背筋に静かな震えが走った。
「僕は、ある日、忘れたはずの景色を見た。
それは、演劇棟の小さな練習室。
窓の外に桜が咲いていて――
誰かが台本を持って泣いていた。
その人が誰だったのか、最初は思い出せなかった。
でも、ずっと心に引っかかっていた。
なぜ、彼女は泣いていたのか。なぜ僕は、話しかけなかったのか……」
静かな沈黙。
「――もしかしたら、あのとき、なにか言葉を交わせていたら、
違う未来があったんじゃないかって、ふと今でも思うんだ」
観客の誰かがそっと鼻をすする音がした。
それは芝居なのか、それとも本音なのか。
美咲には、わからなかった。
けれど、彼の語る言葉が、過去のある瞬間と静かに重なっている気がした。
朗読が終わったあと、休憩時間に入る。
楽屋の前で、美咲は戸倉と二人きりになった。
「さっきの……台本、あなたが書いたの?」
「うん。いまは脚本の仕事も少しやってて、書くことが多くなった」
「……あれって、わたしのこと?」
戸倉は少しだけ驚いたように眉を動かしたあと、笑った。
「わかるもんだな。……あのとき、君が泣いてたのを見た。
けど、声をかけられなかったんだ。悩んでるのかなって思ってたけど、実は、俺も伝えたいことがあった」
「伝えたいこと?」
「……もしあのとき、手紙でももらってたら、何か変わってたかな」
美咲の心臓が、ぐっと跳ねた。
「……もし渡してたら、どうしてた?」
戸倉は、ゆっくりと息を吐いた。
「――きっと、迷った。
でも、時間が経っても思い出せるってことは、今でも、そのことを考えてるってことだよな」
それは、遠回しな告白ではなかった。
でも、彼の言葉は確かに「過去と今」をつないでいた。
その夜、美咲は帰り道に、思わずビルの前で足を止めた。
「……行けるかな」
静かなロビー。
誰もいないエレベーターの扉が、音もなく開いた。
彼女は乗り込む。
行先階は押さない。ただ、待つだけ。
そして――また、表示が変わる。
「5.5」
扉が開いた。
今度は「光の稽古場」と書かれたホールが広がっていた。
そこには、舞台、客席、台本、照明、すべてが揃っていた。
でも、誰もいない。
ただ一冊、中央の椅子の上にノートが置かれていた。
美咲は近づき、そっと開いた。
そこには、手書きの文字が並んでいた。
《佐伯美咲、34歳。
書くこと、演じることを、まだやめていなかった。
一度は閉じた感情を、再び解き放とうとしていた。
誰かに届く言葉を、自分自身の声を、信じ始めていた。》
「……わたしが書いたの?」
そう尋ねると、また、あの少女が現れた。
演劇衣装を着た、小さな“美咲”だった。
「これは、あなたが“今”書いてる物語の未来形。
過去に閉じ込められてたあなたは、もういない。
ここから先は、“選んで進む”んじゃなくて、“進みながら創る”道」
少女はそっと言った。
「演じることと、生きることは、すごく似てるんだよ」
エレベーターに戻ると、数字は静かに「9」を指していた。
美咲は笑った。
「ああ、これはもう夢じゃない。現実の一部なんだ」
エピローグ:物語の舞台へ
春の終わり。
「アオイ書房」ではなく、小さな稽古場の片隅で、美咲はノートパソコンを開いていた。
新しく書き始めた短編のタイトルは、
『光の稽古場』
登場人物は、かつて夢を閉じた女性と、かつて声をかけられなかった男。
彼女はその物語の中で、過去と未来の両方を歩き直していた。
朗読会の企画を榊とともに立ち上げ、今度は自分が“演じる側”になることを決めていた。
夜のエレベーターは、もう姿を現さなくなった。
けれど、あの「5.5階」はいつでも胸の中にある。
忘れたものを取り戻し、拾い上げ、未来へと進む。
それは、舞台のような人生――
いや、人生そのものが舞台だったのだ。