夜のエレベーター



佐伯美咲(さえき・みさき)、34歳、独身。
東京のとある広告代理店で働く彼女は、毎日変わらぬ生活を繰り返していた。朝7時半に起き、ブラックコーヒーを飲みながら出社し、深夜まで働く。恋も、夢も、熱も、いつしか日々の忙しさに埋もれていた。

ある金曜の夜。雨がしとしと降る中、終電を逃し、会社の仮眠室で一夜を明かすことに決めた美咲は、エレベーターで9階の仮眠室へ向かっていた。

「ピン……」

妙に長い沈黙のあと、エレベーターが停止した。しかし表示は「5.5階」。
「……そんな階、あったっけ?」

扉がゆっくりと開く。目の前に広がるのは、見たことのない空間だった。古びた美術館のような、でも空間が柔らかく揺らいでいるようにも感じる。
不安よりも好奇心が勝った美咲は、気づけば一歩、足を踏み入れていた。

そこは「忘れられたものたちの博物館」と書かれた小さな看板がある不思議な空間だった。
中には、見覚えのある品々が並んでいた。

――小学生のころに無くした赤い傘。
――高校時代、彼に渡せなかった手紙。
――大学ノートの片隅に書きかけていた小説の冒頭。

「これは……私の……?」

博物館の奥に進むと、黒いスーツを着た中性的な係員がいた。
「ようこそ、美咲さん。“思い出の断片”をお返しに来ました」

「え……返されても、今さら……」

「では、捨てますか?それとも、思い出しますか?」

係員の言葉に、美咲は立ち尽くす。
どれも、今となっては無意味に思える。でも、胸の奥がじんわりと熱くなる。

彼女は、ノートを手に取った。書きかけの物語が、そこにはあった。
「……続きを、書いてもいいのかな」

「もちろん。ここからが始まりです」

エレベーターの「上」ボタンが点灯した。
気づけば、美咲は仮眠室の前に立っていた。エレベーターの階数表示はちゃんと「9」を指していた。

あれは夢だったのか。
けれど翌朝、カバンの中には、古びた赤いノートが入っていた。

その日から、美咲は少しだけ生活を変えた。週末にはカフェでノートを開き、物語を書き始めた。
それは、かつて置き去りにした自分自身との再会でもあった。

あの「5.5階」へ、もう一度行けることはなかった。
けれど美咲の中にある世界は、少しずつ、確かに広がっていった。

*こちらのストーリーはフィクションです

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