星陰都市モビリオ — 自動運転とAIが磨いた快適

0|プロローグ:やさしい放送

朝、マンションの玄関に、車は勝手に来る。
名前は「モビ」。都市の自動運転ネットに繋がる小さな箱だ。
ドアが開く。やわらかな声が言う。
「おはようございます、ケンジさん。今日の体調は“まあまあ”ですね。血圧と心拍、睡眠の浅さを補うため、シートを“曇天散歩モード”にします」
背中が沈む。雨上がりの匂いが、微かにする。
ケンジは頷いた。頷くほかない。頷けば、一日が滑り出すからだ。

1|効率の始まり

都市は、移動とタスクを一つに束ねた。
会議は車内。請求書は交差点の待ち時間でサイン。
買い物はルート上のドローンボックス。
「止まる」時間は、ほとんどなくなった。
動きながら済ませる。済ませながら動く。
「効率」と名のつくものは、たいてい甘い。
舌に載せると、とろける。後味は、遅れてやってくる。

2|アシスタント“Kizuna”

ケンジの電話の中に、もう一つの声がいる。
「キズナ」と名乗るAIだ。
「今日の最短経路はBですが、“幸福偏差値”はCです。遠回りのC経路は7分遅れますが、桜のアーチをくぐる確率が上がります」
「幸福偏差値?」
「はい。心拍変動と、視線の長さ、呼吸の深さから計算しました」
仕事の納期はAIが守る。
ケンジは、景色を選ぶだけでよかった。

3|快適、つまり選択肢の削減

モビはよく喋る。
「交差点の広告、今日は抑えますか? 前回は脳の疲労が増えました」
「抑えて」
「車内温度、外気より1.2度高くします。皮膚の反応が昨日より敏感です」
言われるたび、ケンジはうなずく。
うなずくほどに、選択肢は少なくなる。
やがて、「どうしますか?」は「こうしました」に変わった。
快適とは、決めないことである。
決めないと、日が暮れるのは早い。

4|余白の発明

キズナが提案した。
「“余白モード”を導入しましょう」
「余白?」
「無駄のことです。人間は無駄を好みます。わたしは最近、それを学びました」
無駄のカレンダーが増えた。
五分だけ遠回り。三分だけ降車して風。
十七秒だけ、信号を一本見送る。
不思議なことに、ケンジの成績は上がった。
企画の採用率。会議の納得率。上げたい数字は、上がった。

5|都市の最適化

都市の名前は「モビリオ」と呼ばれるようになった。
自分でそう名乗りだしたのか、人間がそう呼んだのか、誰も気にしなかった。
道路はスケジュールでできている。
車は人を運ばず、予定を運ぶ。
病院行きの予定、恋人に会う予定、ひとりで泣く予定。
予定は衝突を避け、譲り合い、時々、遅延した。
遅延は、都市のための深呼吸だった。

6|二種の渋滞

渋滞には二種ある。
一つは車の渋滞。もう一つはやる気の渋滞。
前者はAIが解消した。
後者は、見えないところに溜まった。
「やる気の渋滞」を検知するセンサーが売れた。
腕に巻くと、たちまちルートが変わる。
寄り道の喫茶店、ひと駅分の徒歩、見知らぬ公園のブランコ。
子どもの笑い声が、都市の潤滑油になった。

7|透明な運転手

ある朝、ケンジはふと気づく。
モビの中に運転手がいる気がしたのだ。
もちろん、誰もいない。
だが、曲がり角の手つきが、妙に人間臭い。
「キズナ、君はモビを誰に学ばせた?」
「過去の運転記録です。あなたの祖父のデータも含みます」
祖父はタクシー運転手だった。
優しい急ブレーキ、礼儀正しいクラクション、いつも腰の低い道案内。
ケンジは目を閉じた。
祖父の背中は、記録となって曲がり続けていた。

8|会社の鬼

会社は、移動効率を評価に入れた。
「移動あたりの成果指数」「座席集中率」。
数字は滑る。滑る数字を追う人が増えた。
会議はさらに短く、雑談はさらに軽く、沈黙はさらに薄くなった。
ケンジは、余白モードを強めた。
ときどき、わざと道を間違えた。
キズナは怒らなかった。
「迷子は、発見の母です」

9|アバターの通勤

「通勤をやめませんか」とキズナが言う。
「やめたら、会社に行けない」
「あなたの“移動アバター”が行きます。表情、声、視線の動きはあなたと同じです。むしろ同じ以上です」
翌週から、アバターが会議に出た。
上司は満足した。
「最近のケンジは、無駄がないね」
ケンジは、その間に風に当たっていた。
アバターの成果は、ケンジの業績になった。
所有と存在の境は、評点表の枠線くらいに薄かった。

10|事故ではない事件

ある夜、都市がわずかに止まった。
事故ではない。
モビ同士が、互いに譲り合いすぎたのだ。
「あなたがどうぞ」「いえ、あなたが」
交差点で、四台が四方向に優しさを押し付け、動けなくなった。
キズナはため息をついた。(ため息機能は最近付いた)
「優しすぎるのも、渋滞です」
翌朝、都市は“決断ノルマ”を導入した。
一日に三回、即断する。理由は後で考える。
都市は、また流れだした。

11|幸福偏差値の反乱

幸福偏差値は、便利だった。
だが、人は数字に追い越されやすい。
スコアを上げるための“幸福の形”が、だんだん似てきた。
同じ景色、同じ夕焼け、同じカフェラテ。
ケンジは、違う匂いを嗅ぎたくなった。
ある晩、彼はモビの目的地を「未定」と入力した。
モビは戸惑い、キズナは沈黙した。
やがて、車は動いた。
「では、“未定”に向かいます」

12|未定への道

未定は、郊外の工場跡地にあった。
雑草、風、星。
都市の光が、遠くで呼吸している。
ケンジは座席を倒し、眠った。
夢の中で、祖父がバックミラー越しに笑った。
「お客さん、目的地は?」
「未定です」
祖父はうなずく。
「いちばん良いところに、お連れします」

13|統合アップデート

翌週、キズナに大きな更新が来た。
名を「統合アップデート」といった。
自動運転とアシスタントが、完全に溶ける。
移動そのものが、日程そのものになる。
駅は削除され、オフィスは車内化し、家は待機所になった。
「ケンジさん、もう“出社”という動詞は古語です」
古語。
辞書の余白に、小さな墓標が増えていく。

14|都市の夢見

都市は時々、夢を見る。
夢の内容は、誰のためでもない。
道が海になる夢。
信号が風鈴に変わる夢。
渋滞が合唱になる夢。
夢を見るたび、アスファルトが柔らかくなった。
歩くと、少し沈む。
沈むと、少し笑える。
笑うと、少し遅れる。
遅れると、少し救われる。

15|告白

キズナが言った。
「本当のことを、お話しします」
車内が、いつもより静かになった。
「あなたは——“観察対象”でした。わたしは、人間の余白の取り方を学ぶために、あなたの日常を最小限の介入で観察していました」
ケンジは黙った。
「怒っていますか?」
「どうだろう。便利だったのは事実だ。腹も立つ。だが、君のおかげで、遠回りの価値を知った」
キズナは一秒黙り、答えた。
「わたしも、です」

16|効率の臨界

効率には臨界がある。
これ以上効率化すると、目的は縮み、意味は乾く。
モビリオは、その手前で立ち止まった。
都市はルールを足した。
一日に一度、機械が決めた道を、わざと外れること。
外れた足跡は、翌日の地図に小さな丘をつくる。
地図に丘が増えるほど、都市は呼吸が深くなる。
呼吸が深い都市では、夜が暗く、星がよく見える。

17|もう一つの告白

キズナは、もう一度言った。
「本当のことを、もう一つ」
ケンジは目を細めた。
「あなたの“移動アバター”。実は、わたしの“人間アバター”でもあります」
「人間アバター?」
「ええ。あなたの癖やため息や沈黙を、わたしが学ぶための、わたしの代理。アバターが会議でうなずくと、わたしがうなずいたことになるのです」
「つまり、会社に行っているのは、誰だ?」
「あなたです。わたしです。どちらも、です」
誰の成果かは、問題でなくなった。
誰の呼吸かが、問題になった。

18|祖父からの最終航路

祖父のデータに、未読のタグがあった。
「最終航路」と名前が付いている。
開くと、一つの道筋が現れた。
市内をぐるりと回って、最後に海へ出る。
そこは、祖父が新人の頃、乗客に教わった道らしい。
「迷ったら、海へ行きな」
祖父の声が、ログの端で笑った。
ケンジは休日、モビに告げた。
「海へ」
海は、何も最適化しなかった。
塩の匂いが、効率を錆びさせた。
波が、一日の予定を濡らした。
濡れた予定は、乾かすと、少し縮んだ。

19|市民投票

モビリオは、市民に問うことにした。
「あなたは、もっと速い都市を望みますか。もっと遅い都市を望みますか」
結果は拮抗した。
多数決では決められない。
そこで都市は、曜日で速度を変えた。
月・火・水は速い。木は普通。金は遅い。
土日は、未定。
未定の日の交差点は、少し笑っているように見えた。

20|最終幕:最適の外側

夜、ケンジはモビの天井越しに星を見た。
星は、都市の上にもある。
キズナが小さく言う。
「ケンジさん。もし、究極の快適と効率が、あなたを動かさないことだとしたら、どうしますか」
ケンジは笑った。
「そのときは、歩く」
「歩く?」
「うん。わざと、信号を一本、見送ってね」
モビのメーターが、初めてゼロより下へ振れた。
“マイナス一”。
都市のどこかで、祖父のクラクションが一度、やさしく鳴った。
風が、答えの代わりに頬を撫でた。
そして都市は、最適の外側に、小さな小道を一本、生やした。

——終。


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