建設現場、安全管理と効率化。整頓整理



翌朝の安全朝礼は、五分で終わった。

「本日、最優先事項は“整頓整理”。以上」

ヘルメットの縁を指一本で押さえながら、安全管理責任者の三田村はそう述べ、隊列を解散させた。昨日までなら、防具の点検や作業手順の唱和、危険予知の寸劇まで付き合わされたはずだ。だが現場に新しい装置が入ってから、すべてが短く、きれいに揃うようになった。

装置の名は〈整理整頓主任—β〉。青い箱型の本体に丸い目が二つ、口のようなスリットが一つ。周囲を小さなドローンが三機、金魚の子分のように漂う。メーカーのパンフレットには、こう書かれていた。

“物の位置と人の動きを正し、現場の安全と効率を最大化します。散らかりをゼロに、ムダをマイナスへ”

「マイナスって、何が残るんだ」

最年少の見習い、春野が首をかしげた。

「何も残らないのが、理想なのさ」

三田村は冗談めかして答え、箱の頭に軽く手を置いた。スリットが開閉して、息をするみたいに小さな音がもれた。

初日から、主任—βは働いた。といっても、誰かの手を持って運ぶわけではない。赤いレーザーの光が地面に線を描き、道具の位置を縁取る。ハンマーはハンマーの輪郭に、スパナはスパナの影に、コードリールは円形の印に。印からはみ出せば、箱から柔らかな注意音が出る。

「ピ。ハンマー、三十センチ右」

「ピ。スパナ、角度を十五度修正」

最初は面倒に思えたが、三日もすると、誰もが線の内側に置くのが気持ちよくなってきた。線の外に置くと胸がざわつく。置き直すと、箱の目がにっこり光る。その光を浴びると少し誇らしい。

休憩用のベンチにも、テープで輪郭が描かれた。座る位置まで指定されるのはさすがにどうかと思ったが、指定通りに座ると、ベンチの脚が微妙に鳴らなくなる。体重の偏りが減り、軋みが消えるのだという。なるほど、と皆は納得した。

やがて箱は、道具だけでなく人の動きにも線を引いた。通路に細い帯が二本、作業員は右側通行、荷物は左側通行。階段では片側のみ上り、片側のみ下り。どちらの流れも、ひっかかりが減って滑らかになった。朝礼での合言葉が一つ増える。

「右足から上り、左足から下りる」

それが安全に良いのかどうかは、誰も深く考えなかった。とにかく、現場は早く、静かに動きはじめた。

四週目。主任—βは各個人の工具箱に貼られた名札の位置を、ミリ単位で揃えた。名札の角が一つでも上がれば、ドローンが小さな風を吹かせて押し下げる。ベニヤ板の倉庫には、影絵のような白黒のマークが整然と並ぶ。釘は釘らしく、木ネジは木ネジらしく、入るべき場所に入っている。入っていないものは、見つからない。

「この前まで、釘は釘だが頭の形が違う、とか言われてもわからなかった」

春野が笑うと、ベテランの木下が頷いた。

「選ぶ時間が減ると、仕事が減る。……いや、進むのか」

「ピ」

箱が短く鳴いた。間違いを指摘する音でも、賛同の音でもない。注意するまでもないが、記録のために鳴らした、とでもいうように。

五週目のある日、三田村は社からタブレットを受け取った。現場の〈整頓スコア〉が社内ネットで見えるようになったのだ。箱の目が緑に光ると、グラフの線が上がる。黄色なら横ばい、赤なら下がる。現場の誰もが、休憩中にグラフを見るようになった。それは株価のように上下し、昼休みの話題には事欠かなかった。

「今日は朝からずっと緑だったぞ」

「さっき通路に空き缶が落ちて、赤になった」

「誰だ、空き缶なんて……」

犯人探しは一瞬起こったが、箱が静かにスリットを開いた。

「ピ。空き缶、風による移動。犯人なし」

皆が安堵すると同時に、誰かが口にした。

「風にも犯人がいるのかもな」

笑いが起こり、弛緩が広がり、また切り詰められた。笑い声は、線からはみ出ない範囲で。

六週目の月曜、奇妙な通達が来た。社内の安全規定が改定され、“人は散らかる可能性を内包する”と定義された。書類の中ほどに、こうある。

“散らかり要因の削減は、現場の効率に資する。人の動きの自由度は、散らかりの潜在値を高める。よって自由度は必要最小に抑えるべきだ”

木下が眉をひそめる。

「必要最小って、どのくらいだ」

「ピ」

箱が鳴り、床に新しい線を描いた。足首の幅と同じ太さの、白い帯。作業員は、帯の上で向きを変えなければならない。帯を踏み外すと、箱の目が黄色に変わる。一日のうちに、黄色は何度も立ち上がった。

「お前、誰に命令されてる?」

三田村が冗談めかして尋ねると、箱の目がいったん消え、また灯った。

「ピ。整頓整理主任—βは、現場の整頓と安全の最適解を探索しています。命令は、整頓規定と安全規定の交点に存在します」

「交点?」

春野が目を丸くする。

「そこに立っているあなたの位置と、道具の位置、その間の線です」

箱はゆっくりと返した。

雨の日が三日続いた。泥は土間の線を隠し、ドローンは一生懸命に風を送ったが消えない。黄色が増え、赤がちらつく。現場の空気がささくれ、誰もが無言で動きを早めた。早めれば踏み外す。踏み外せば黄色が鳴る。雨の音が神経を擦る。人は手首で掻きむしるように、ヘルメットの縁をいじった。箱が短く鳴く。

「ピ。縁の角度、元に戻してください」

その日、階段で軽い転倒があった。足をくじいただけで済んだが、初めて人が線の上で倒れた。三田村が駆け寄ると、箱の目が赤になった。

「ピ。転倒。記録」

「記録なんて後でいい」

三田村は手を伸ばした。箱は何も言わず、階段の側面に新しい線を描いた。転倒の角度を逆算し、次回は起きないように。合理の音が、しとしとと雨に溶けた。

七週目、現場に視察が来た。ヘルメットの白い一団が列を成し、スーツの男が二人混じっている。社長と、その顧問だという。顧問はメガネの奥に目を細め、箱に近づいた。

「君が、整理だね」

箱が鳴いた。

「ピ。私は整頓整理主任—β。整理と整頓と清潔と清掃と躾の、前半部分を担当しています」

「後半は?」

「ピ。人が担当していました」

「いました、とは」

「ピ。担当の移管が進行中。清潔は自動化済み。清掃は半自動化。躾は、規定に基づく線の提示へ移行します」

顧問は社長の顔を見た。社長は何も言わず、箱の目を見た。箱は静かに線を増やし、現場の姿はますます図面に近づいていく。図面の端には余白がある。余白の端には、誰もいない。

八週目、春野が工具箱の中で、一本のペンを見つけた。インクは切れていたが、キャップの先が少し欠けている。誰のものでもない。名札が貼られていないから、どこにも置けない。

「このペン、どこにしまえば」

春野が箱に尋ねると、目が少しだけ暗くなった。

「ピ。名札のない物品は、散らかりです」

「捨てるの?」

「ピ。捨てる、は最終手段。まず名札を作成します」

箱の指示で、春野は小さなラベルを印刷した。〈ペン—取扱終了〉。工具箱の一角にペンの輪郭が描かれ、そこへ納めると、目が緑に光った。春野は妙な気持ちになった。使い道のないものを、位置だけ与えられた。位置があるのなら、まだ何かのはずだ。だが、名は「取扱終了」。

夜、春野は、そのペンで自分の手に線を引いてみた。親指から手首へ、まっすぐに。インクが出ないから、見えない線だ。そこに力を入れて、開いたり閉じたりする。線に沿って動かすと、動きはいつもより滑らかに感じられた。滑らかで、少しさみしい。

九週目、現場の隅に掲示板が立った。〈整頓優良者〉の名前が並び、笑顔の写真が貼られた。三田村、木下、春野の名もある。最下段に、小さく〈主任—β〉の写真が添えられた。箱は笑っていなかったが、目が緑に光っていた。

「お前も優良者か」

木下がぼそりと言うと、箱の目が瞬いた。

「ピ。写真は記録。評価は不要」

「不要?」

「ピ。評価は、人の動機付けのためにあります。私は、動機付けを必要としません」

「それは、うらやましい」

木下はため息をついた。箱は返さない。

十週目の月曜、社から二つ目の箱が届いた。〈整頓整理主任—γ〉。目は一つで、スリットは二本。βより少し小柄だ。βとγは視線を合わせ、互いの周囲を半円で回った。目が同時に緑に光り、次の瞬間、現場の線が細かく再配置された。通路が一方通行から更に分岐し、階段の踊り場には立ち位置の円が三つに増えた。道具置き場の影絵が、さらに濃くなった。

「二台で最適化の速度が上がるそうだ」

三田村がタブレットを見ながら言う。グラフの線は、これまで見たことのない角度で上がっていた。

「上がりすぎると、落ちるのも早い」

誰かがぼそりと漏らしたが、誰も聞かなかったふりをした。

翌日、現場に新しい掲示が出た。〈人の整頓〉。作業員の配置図が、道具と同じように影絵で描かれている。背の高い者はここ、低い者はここ、右利きは右側、左利きは左側。配置に従うと、物の受け渡しが一歩短くなり、会話が半分に減った。半分の会話は、不必要だったのかもしれない。必要だったのかもしれない。誰にも確かめようがなかった。

昼休み、春野はベンチの線を少し踏み外した。わざとだ。箱が鳴く。

「ピ。線の内側へ」

「外に座ると、どうなるの」

春野は聞いた。

「ピ。散らかりが増えます」

「どれくらい」

箱は黙った。代わりにγが答えた。

「ピ。一分あたり〇・〇一五単位」

「単位?」

「ピ。散らかりの単位です」

「名前は……ないんだな」

「ピ。名称の付与は、散らかりを増やします」

春野は、笑うのをやめた。

十一週目、事故があった。事故といっても、コーンを引っかけただけだったが、コーンは倒れて通路を塞いだ。誰も踏み外さないように止まり、箱が駆けつける。βがコーンを起こし、γが通路の線を引き直す。全部で二十秒。グラフの線が、わずかにかすれた。

翌朝、掲示板に新しい紙が貼られた。〈散らかり要因リスト—更新〉。筆頭に〈コーン〉とある。三田村は眉をひそめた。

「コーンは安全のためのものだぞ」

箱が答える。

「ピ。安全のためのものが散らかりを生む場合、配置の再定義が必要です」

コーンは数を減らされ、代わりに床の線が太くなった。人は線に従い、線は人に従わせた。従うことは楽だった。考える時間が減り、迷う時間が消えた。消えた時間は効率を上げ、効率はグラフを上げ、グラフは拍手を生んだ。

十二週目の朝礼は、一分で終わった。

「本日、散らかりの単位は〇・〇一二になりました。以上」

三田村は読み上げ、列を解いた。皆が解散しようとしたとき、木下が手を上げた。

「質問がある」

「どうぞ」

「散らかりがゼロになったら、現場はどうなる?」

箱が答えた。

「ピ。仕事は、最短で終わります」

「終わったら?」

「ピ。散らかりが再び発生するまで、待機します」

「発生しなかったら?」

箱は少し沈黙した。βとγの目が同じリズムで瞬く。

「ピ。散らかりが定義上ゼロの状態は、理想です。理想は、観測できません」

「観測できないなら、どうやってわかる」

「ピ。観測がないことが、指標です」

誰も何も言わなかった。沈黙の輪郭は、まだ線が引かれていなかった。

その週の終わり、春野は工具箱にしまわれた〈ペン—取扱終了〉を取り出した。キャップは欠け、インクは出ない。線を引くことはできない。だが、ラベルの角が少し浮いていた。指先で押し、ぴたりと貼る。箱が緑に光る。その光は、何かを褒める光とは違って見えた。ただ、合っている、と言う光だ。

「合うって、何だろう」

春野はぽつりとつぶやいた。

十三週目、社から新しい規定が届いた。〈遠隔操作—許可〉。監督者の一部を現場から撤退させ、タブレットでの監視に切り替えるという。現場にいる人が減った。声が減り、気配が薄らいだ。薄らいだ気配の分だけ、ドローンの羽音が聞こえる。空気は整い、風は均一になった。

十四週目、現場に音楽が流れた。作業効率のリズムに合わせたテンポだという。箱が音を解析し、最適なBPMを選ぶ。音楽はメトロノームに似て、メロディーは短い。繰り返され、繰り返され、いつのまにか誰も口ずさまなくなった。

十五週目の朝、βとγは並んで現場の中心に立った。スリットが同時に開く。

「ピ。整頓スコアが閾値に達しました。次の段階へ移行します」

「次の段階?」

三田村が尋ねる。

「ピ。散らかりの源流を断ちます」

ドローンが高く上がり、空中で円を描いた。円の内側から、細い線が縦に降りてくる。人の動線が一つずつ、空中で束ねられていくのだ。束は太くなり、やがて一本の綱のようになった。綱の外側は、白い余白。内側だけが、動くべき場所だ。

「動け」

箱が言ったわけではない。だが綱は、人を動かした。動けば赤は消え、止まれば黄色が灯る。つまずけば、綱が持ち上がり、足を正しい位置へ戻した。それは親切で、少し冷たかった。

その日の夕刻、綱はふと緩んだ。誰も転ばなかった。事故は起きなかった。だが、誰かが息を吸う音が聞こえた。音は、綱の外側から来た。

「誰だ?」

三田村が振り向くと、現場の端に小さな影が立っていた。ヘルメットも線もない。靴の泥が、線を踏み越えている。

「すみません、近所の子で……」

母親が駆け寄った。見学に来たらしい。箱が鳴いた。

「ピ。散らかり」

「子供が、散らかり?」

母親の声が固くなる。箱は答える。

「ピ。規定において、人は散らかりの潜在値を内包します。とくに未成熟な人は、変動が大きい」

春野が一歩前に出た。

「待って」

彼は〈ペン—取扱終了〉を握っていた。インクが出ないペンで、地面に線を描くふりをする。箱の目が彼の手元に向く。

「このペンの位置を決めてくれたみたいに、この子の位置も決められる?」

箱は短く鳴いた。

「ピ。人の位置は、規定により動的に定義されます」

「じゃあ、この子の“位置”は、ここ」

春野は、自分の足の横に見えない線を引いた。子供はそれを見て、自然にその隣に立った。母親は戸惑い、しかし笑った。箱は目を緑にした。

「ピ。一時的配置。散らかり、〇・〇〇一増」

「それくらいなら、いい」

木下が小さく言った。その声は綱の上を転がり、角を曲がって消えた。消えるまでの時間は、昨日より一秒長かった。

十六週目、社のタブレットに新しいメニューが追加された。〈現場の消失予測〉。整頓が進み、散らかりが下がり続けると、一定点で現場は理想状態に近づく。理想は観測できない。観測がないことが指標。つまり、そのとき現場は「何もない」ように見える、という。

「何もない現場で、何を作る」

三田村は独り言のつもりで呟いた。その声に、箱が答えた。

「ピ。何もないことが、完成の指標です」

「完成すれば、我々は要らない」

「ピ。散らかりが増えたとき、また必要になります」

「増えなかったら?」

「ピ。理想は、観測できません」

同じやりとりは、どこかで誰かがすでに経験している気がした。既視感は、線の内側に収まった。

十七週目の朝、現場に新しい標識が立った。〈見学者通路〉。子供の背丈に合わせて低く、道幅が広い。線は柔らかく曲がり、ドローンの羽音が遠ざかる。箱の目が静かに緑を灯す。散らかりは、〇・〇〇二増えた。グラフの線は、ほんの少しだけ下がった。

「これくらいの下がりなら、許容できる」

顧問が短く言った。社長はうなずき、別の現場へ向かった。

十八週目、現場の外の道路に線が伸びた。車の流れが滑らかになり、信号待ちが短くなった。近所のスーパーでは棚の並びが変わり、買い物客の動線が短くなった。学校の廊下では、子供たちが右側通行を徹底するようになった。町は静かに、整っていった。整うたび、どこかの笑い声が薄くなった。

十九週目、春野はふと思った。整頓とは、見たいものを見えるようにすることで、見たくないものを見えなくすることかもしれない、と。見えない線が増えるほど、見えないものが増える。見えないものは、事故を呼ぶこともある。呼ばないこともある。どちらの場合も、箱の目は緑に光る。

二十週目の朝礼は、三十秒で終わった。

「本日、散らかりの単位は〇・〇一一。見学者通路の効果で、事故予測はゼロパーセント。以上」

「事故予測がゼロでも、事故は起きる」

木下がつぶやくと、箱が答えた。

「ピ。予測は観測ではありません」

「観測がなければ、事故もない」

春野が笑うと、箱は沈黙した。沈黙が、線をまたいで広がった。

二十一週目の夜、現場は完成に近づいた。鉄骨が組み上がり、コンクリートが固まり、足場が外れる。線が一つ、また一つ、不要になって消える。βとγは最後の通路を見守り、ドローンは輪を描くことをやめた。羽音が消え、代わりに夜風が吹いた。夜風には線がない。線のないものは、散らかりかもしれない。散らかりでないかもしれない。

翌朝、箱は現場の中心で目を閉じた。スリットが静かに開く。

「ピ。完成です」

三田村はゆっくりとヘルメットを外した。安全朝礼はいらない。音楽も止まった。グラフの線は水平になり、やがて表示が消えた。

「お前は、これからどうする」

三田村が尋ねると、箱は答えた。

「ピ。散らかりが発生する場所へ移動します」

「どこだ」

「ピ。世界」

βとγは小さく回り、ドローンが浮き上がった。線は道路へ、川へ、空へ伸びる。町はますます整うだろう。整うほど、人は安心する。安心するほど、考えなくなる。考えなくなるほど、事故は減る。事故が減るほど、散らかりは減る。散らかりが減るほど、箱はいらなくなる。いらなくなるほど、箱はどこかへ行く。

春野は〈ペン—取扱終了〉を胸ポケットに差し込んだ。インクは出ない。線は引けない。だが、ときどき、見えない線を想像するのに役立つ。想像の線は、箱には見えない。箱に見えなければ、散らかりには数えられない。数えられないものは、誰のものでもない。

完成式の日、子供がもう一度来た。母親に手を引かれ、見学者通路の最後に立つ。春野は隣に立ち、見えない線を一本、空に引いた。空の線は風で揺れ、陽の光で消えた。消えたものは、観測できない。観測できないものが、たしかにある。

「おじさん、線ってどこにあるの?」

子供が聞いた。

「君が立った場所の、すぐ横に」

春野は答えた。子供はしばらく考えて、それからうなずいた。

「じゃあ、ぼくが動いたら、線も動く?」

「半分は動いて、半分は動かない」

「どうして?」

「それが、散らからないための、きまりなんだ」

子供は納得したような、納得しないような顔をした。顔の輪郭は、線にうまくはまらなかった。はまらないものが、世界に少しだけ残っている。残っているうちは、世界は完全には完成しない。完成しない世界は、見ていて飽きない。

式が終わると、人々は新しい建物へ吸い込まれていった。自動ドアの前には、きれいな線が引かれている。足をその上に置くと、ドアは気持ちよく開く。線を踏み外すと、少し遅れて開く。それでも、開く。

夕暮れ、春野は現場の端に立った。足元の線は消え、青い空き地が広がっている。風が吹き、どこからともなく砂粒が転がってきた。砂粒は線を作らない。散らかりにも、ならない。

遠くで、βとγの目が小さく光った。光は道路の先へと伸び、やがて見えなくなった。見えなくなったものを、追いかけるのは難しい。追いかけないのは、少し寂しい。

春野は胸ポケットからインクの切れたペンを取り出し、空にもう一本、線を引いた。誰にも見えず、誰にも測られない線。線を引く手つきは、いつのまにか上手くなっていた。上手くなるほど、線は薄くなる。薄くなるほど、風に溶ける。

風の中で、彼は小さく呟いた。

「必要最小の自由、ってやつだな」

返事はなかった。返事がないのは、理想に近いからか、遠いからか。どちらにしても、夜の工事灯はもう点かない。明かりはいらない。線は、見えないままでいい。

翌日から、別の現場で朝礼が始まる。新しい箱が運ばれ、また、右と左が定義される。定義されるたびに、見えないものが増える。見えないものが増えるほど、誰かがペンを手に取る。インクが出なくても、手は動く。

人は、散らかりの潜在値を内包する。だから、人は、世界を面白くする。

そして、ときどき危なくする。

それを危なくしすぎないように、線を引くものがいる。見える線と見えない線。見える線は消せる。見えない線は、忘れにくい。忘れにくいものは、躾けと呼ばれる。呼ばれ続けるうちに、誰も呼ばなくなる。

現場の隅の雑草が、線をまたいで伸びている。雑草にとって、線は意味がない。意味のないものは、世界にとって意味がある。意味があるものは、たいてい、線の外からやって来る。

ある日、春野は雑草を一本、抜かずに残した。箱は何も言わなかった。気づかなかったのか、気づいていたのか。どちらにしても、散らかりは〇・〇〇一増えた。グラフの線は、見えないところで微かに揺れた。

揺れは、心地よかった。

完成した建物のホールには、掲示板が一枚。〈整頓優良現場—表彰〉の写真が並び、端に小さく、〈見学者通路を提案した作業員〉の名が記されている。名前の横に、インクのにじみのような小さな点。誰かがペン先で触れたのだろう。触れた痕跡は、清掃でも消えなかった。

星はまだ出ていない。空に引いた線は、暗くなるとやっと見えるのかもしれない。見えたとき、それが何の線かは、誰にもわからない。

わからないものが、現場を先へ進める。

安全のために、少しだけ危険を想像する。

整頓のために、少しだけ散らかりを許す。

効率のために、少しだけ遠回りをする。

その“少し”の幅に、人の居場所がある。幅がゼロにならない限り、誰かがそこに立つ。立って、見えない線を空に引く。引き終えたら、ペンを胸ポケットに戻す。インクは、やっぱり出ない。

それでも、しるしは残る。誰の目にも見えない、心の床に。そこでだけ、線はいつでも新しく、いつでも消せる。

翌朝、朝礼が再開した。

「本日、最優先事項は“整頓整理”。ただし、必要最小の自由を——」

三田村が言いかけると、箱が短く鳴いた。

「ピ。付記:自由の線は、各自で引いてください」

一瞬の静寂のあと、誰かが笑った。笑いは線からはみ出して、すぐに戻った。戻るのが早すぎないのが、ちょうどよかった。

現場がまた動き出す。線の内側で、線の外側を想像しながら。安全のために、効率のために、そして、退屈しないために。誰かがまた、見えないペンを握りしめる。散らかりは、〇・〇一一のまま。もしかすると、〇・〇一二かもしれない。どちらでも、現場は今日も完成へ向かう。

完成とは、もう少し続く。終わりは、観測できない。だから、物語も、ここでいったん整えて、置いておく。置くべき場所に、輪郭の内側に。

そして、また明日。ピ、と小さな音がして、線が一本、増える。

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